嘘つき
よく嘘は良くないとか泥棒になるとか言うが本当に嘘は良くないのだろうか。今日は考えて行きたい。
始めに結論を持ってくるが「鍵をかけないから泥棒に入られる」論になると思う。
もちろん泥棒が悪いが鍵ぐらいのものをかけないなら泣き寝入りしかない。
嘘を語るのは難しい。
難しいというのは嘘で楽しく会話をしてる人もいるし、考えも無しに嘘をついて人を傷つけてる人もいる。個人的には何かの目的のためにいろいろ考えて嘘つけば上手く回るし嘘どうかわからない不安定な面白さもあると思う。
なので結論ありきで論を展開させてもらおう。
この嘘とは何かを理解するために仮説と対比する。
仮説は正式な場でも使うことがある。いわゆる「かもしれない」だ。このかもしれないは決定してるわけではない。あとで間違ってるといわれる場合もある。もしかしたらその場で否定しきれない事を間違ってるとわかってるのに仮説だと言い張って出しているかもしれない。
しかし嘘と違う点が二つある。
一つは検証がセットであるという事である。そもそも嘘は絶対に検証できない事やそもそもその必要ないような自明である事にしか使われないので違いといったら変なのだが、嘘をついたらそれは嘘だろといわれるだけだが 仮説を話したらまずおもしろがられて検証の方法の話になる。そういう意味で対比になる。
二つ目は高尚である。こうやって対比した理由がこれである。嘘か仮説かの違いは内容が難しいいかどうかでしかなく、実は真理をついていた天才の意見も理解できないだけで嘘つき呼ばわりして無視していたのではないだろうか。
統計学や恋愛学で嘘つきのほうがモテるや優秀な人は嘘つくなどがあるが、こうやって考えると嘘というのは頭ごなしにすべて否定してはいけないし子供が嘘をついたら嘘をついてはいけないというのではなくそんな低い次元で考えずにもっと面白い事を考えさればいいと思う。そもそも脳が複雑に成長するから嘘というか仮説を立てていろいろ考えるのであって、嘘を否定するのでなく喜ぶべきなのではないか。創作物のアニメや落語もいってしまえば嘘であり、世界のどこを探しても起こりえはしない。しかし楽しめるのである。内容を低俗ではないとリスペクトして仮説としてもしを楽しめばいいのである。
散らかってきたのでまとめると「面白い仮説を立てていこう」である。気楽でいいね。
先に出した結論については 嘘で傷ついてる人向けに嘘をつかれても「そうかもしれないね♪」ぐらいで流していこうという事である。
最後に付け加えたいのは結果論としての嘘である
責めていいのは確実な悪意だけであって結果論は相手の選択肢を奪って嘘になっちゃうなを引き出しても喧嘩にかってはいない。
PS
せっかくブログを始めたので適当に書いてみたがやっぱり難しい。なんにも決めず書いていたらただ嘘つきたい人になって、自分の主張したい事と格闘していた。